
円形シアターを思わせる、緑の庭と住空間。
経年で魅力を増す森林の別荘
土地に無理をさせず、
土地の個性を昇華する設計
それは、伊藤さんが軽井沢で手がけた『追分の山荘』を見てもよくわかる。ここは老舗企業の経営者一家の別荘で、ご夫妻と、独立した3人のお子さまそれぞれのご家族が、夏の休暇を過ごすために計画されたものである。
森林の中に広がる土地を見たとき伊藤さんが着目したのは、何かを掘ってできたような、雨水がたまるほどの地面のくぼみだった。そんなものを発見したら「じゃあ土で埋めて平らにして……」と考えてしまいそうだが、伊藤さんは違った。
「土地の中央付近にあったくぼみを見ていたら、円形のすり鉢が頭の中に浮かんできました。くぼみを生かして大きなすり鉢状の円弧をつくり、その中に庭や室内の一部を入れ込めば、森林の中に小宇宙のような空間ができるのではないかと考えたんです」
軽井沢の人々に愛される浅間山は土地の北側にそびえている。しかし計画地の周囲には高木の枝葉が茂り、浅間山の姿はほとんど見えない。
伊藤さんはこの環境──妙なくぼみも、少しだけ残念な眺望も全て受け入れ、「浅間山を望む眺めのよい別荘」ではなく、ぽっかり空いた円形の庭によって「森林の中の小宇宙のような、この土地ならではの空間」を誕生させようと考えた。
土地を無理やり建築に寄せたりせず、その土地だからこそ実現できる気持ちのよい空間をつくり出す。いかにも伊藤さんらしいプランニングの始まりだった。
庭とLDKを一体化する「円弧」
森林に誕生した小宇宙が暮らしの舞台
円形の庭の円周ラインはそのまま室内に入り込み、LDK背後に立ち上がった緩やかなアール(曲線)の壁につながっていく。割合としては大きな円弧の2/3が庭で、残りの1/3くらいが弓型のLDKだ。
この構成で伊藤さんがイメージしたのは、「舞台」だったという。確かに庭からLDKを見ると、円弧でひとくくりになった庭とLDKが円形シアターで、庭は客席、LDKは舞台のように感じる。
LDK背後のアールの壁沿いにはピアノや暖炉があり、壁に埋め込まれた棚には本や絵画が並んでいる。生活のうるおいを感じるものが集約されたこの壁も、LDKという舞台の背景画のようだ。
となると、LDKでの暮らしは、舞台上で繰り広げられる和やかな日常劇といったところだろうか。
もちろん観客はいないし、住まう人に自分が演者だという意識はないだろう。しかし森林の中に生まれた円形空間の不思議な居心地や、劇場の舞台で暮らすような感覚は、ほかにはない特別感がある。しかも、庭の円周ラインに塀や植栽はなく、地面にエッジをつけただけ。おかげで森林と庭が分断されず、舞台(LDK)からは奥行きのある木立の風景を楽しめる。
『追分の山荘』は、邸内の移動の楽しさも見どころの1つだ。
伊藤さんは少し傾斜した土地を利用し、邸内に段差を設けた。邸内を歩いていると自然に視界の高さが変わるうえ、途中でアール壁の曲線も出現し、視線の流れが変化する。スペースごとの空間ボリュームも違っていて、移動中の視界や体感が豊かで飽きない。
こうした移動の楽しさの一例が、庭の反対側に位置する玄関からLDKへの動線だろう。
玄関を入ったとき、視線の先にあるのは庭へ伸びたウッドデッキ。そこに至る通路はアール壁の先端と造作家具に挟まれ、天井高も抑えめで視界が狭い。
ところが庭に向かって進むと左手にあるアール壁が途切れ、数段下がったところに吹抜けのLDKが出現する。細長い通路から突然視界がひらけて、天井の高い弓型のLDKと庭が現れるインパクトはかなりのもの。リゾートの別荘へ来た高揚感を生むにはうってつけの演出となっている。
カリスマ左官職人による土壁の気持ちよさ。
年月とともに魅力を増す、一流の仕事
この別荘の大きな壁は全て、カリスマ左官職人といわれる久住章さん率いる「花咲か団」の左官職人さんたちが手がけた。使用したのは久住さんの出身地でもある淡路の土。わずかに緑がかった上品な浅葱色(あさぎいろ)が特徴で、周囲の森林と呼応するように邸内を柔らかく包み込む。
中でも目を引くのはLDKのアールの壁だ。厚さ30cmの存在感あふれるこの壁は藁すさ入りの土壁で、ざっくり粗めの風合いが気持ちいい中塗り仕上げ。これは久住さん直々の提案だったという。
実は、『追分の山荘』は伊藤さんが留学先のイタリアから帰国し、独立して間もなかった30代の頃に設計した建築だ。
竣工から30年近く経った今、アールの壁は錆びた土の鉄分や藁の灰汁で独特の模様が浮き上がり、いっそう魅力を増している。良質な自然素材、高度な伝統技法、時間の経過……。これらをかけ合わせなければ出合えない質感や表情は静かなのに雄弁で、年月を重ねた貴重なアートを思わせる。
伊藤さんは日頃から、腕利きの職人さんとのネットワークを大切にしている。とはいえ当時は若手建築家だった伊藤さんが、日本を代表する左官職人の久住さんと仕事をするのはハードルが高かったのではないだろうか?
大変失礼ながらそう質問すると、「高くないですよ(笑)。確かに、僕自身がもち合わせていた知識は浅かったと思います。でもそういうことは気にせずに、いいものをつくりたい、こういうものをつくりたいという思いをお伝えしたら、久住さんは『ええよ』と2つ返事で仕事を引き受けてくれました。やっぱり、設計者も覚悟と迫力が大事なんじゃないでしょうか。若いとか、関係ないですよ」と、かる~い感じで深い答えが返ってきた。
伊藤さんいわく、久住さんをはじめとする職人さんたちは皆、気さくで懐が深い方ばかりだったという。
「一流といわれる方々ほど、全然、偉そうになさらない」と、ほがらかに話す伊藤さん。
輝かしい実績をもちながら穏やかで気どりがなく、多くの施主に慕われている伊藤さんに、その言葉、そっくりそのままお贈りしたい。
間取り図
基本データ
| 作品名 | 追分の山荘(円形の庭のある家) |
|---|---|
| 所在地 | 長野県 |
| 敷地面積 | 1673.3㎡ |
| 延床面積 | 188.6㎡ |
| 家族構成 | 夫婦+子ども3人 |
| 予算 | 5000万円台 |
設計者情報
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