
スキップフロアで叶えた可変空間
多摩川のパノラマといくつもの心地良い場所
運命的な多摩川土手の眺望地との出会い
模型とシミュレーションで練った空間構成
そんな街の住宅が立ち並ぶ一角に、建築家松田文男さんの自邸兼事務所がある。周囲を家やマンションに囲まれた旗竿地にある松田邸。一見すると周辺に溶け込む普通の住宅のように見えるかもしれないが、この家を初めて訪れた人は「中にこんなに豊かな空間があったなんて!」と驚くに違いない。
もともと練馬区の賃貸アパートで暮らしていたという松田さんが自邸の建築を決意したのは二人目のお子さんが生まれ、部屋が手狭になったことがきっかけ。
「広い部屋に引っ越すための家賃を考えると、いっそ建ててしまってもいいのではないかと考えました。上の子が小学校に上がるタイミングでもありましたし」と松田さんは振り返る。
土地探しを依頼したのは、仕事で付き合いのあったアラウンドアーキテクチャーという会社だった。同社は、建築家との協業を前提として、土地探しから資金計画、住宅ローンなどをトータルにサポートする会社だ。
板橋区や八王子などの土地が紹介されたが、奥様が通勤する横浜方面にはやや遠かった。また、横浜の土地は駅までの高低差があるなどの理由で見送ってきた中、運命的に出会ったのが多摩川に程近い場所にあるこの土地だった。
まだ古い家が残っていた現地を初めて訪れた松田さん。隣家との間に「抜け」があることに気づいた。「図面ではわからなかったのですが、もしやと思って裏側に回ってみると家の北側が多摩川の土手に面していたんです」と松田さんは当時を振り返る。
アラウンドアーキテクチャーの担当者も、他の候補地よりも価格が安かったにも関わらず「ここが一番良いと思います」と太鼓判を押してくれた。
「直感的に『ビビッときた』といった感じでした。帰りの電車の中でもう、『リビングは二階に配置して抜群の眺望を得られるようにしよう』などと設計のイメージが湧いてきていました」と松田さん。
後日、改めて奥様も交えて現地を訪れ、奥様もこの土地を非常に気に入り購入に至ったという。
抜群の眺望が得られる土地が見つかったとはいえ、この土地に弱点が無かったわけではない。北側こそ開けているものの、三方は戸建てとマンションが迫っている。明るさという点では、北側からでも十分ではあるが、やはり南からの光も取り入れたい。
松田さんは設計の際、必ず行うことが2つあるという。1つめは立体模型を作ること。近年は図面データから直接3Dパースを出力し、それを施主に見せることで完成形をイメージしてもらうという建築家が多いが、松田さんは手仕事での模型作りにこだわる。
「3Dパースよりも、立体模型のほうが空間を体感しやすいと思うのです。光の入り方なども、ライトで照らしたり、方角を合わせて太陽光に当てたりすることで、ここからこう入ってここまで届くというのがわかります。竣工後に『模型と全く同じになりましたね』と言っていただける施主さんも多いんです」と松田さんは説明する。
松田さんが実践するもう1つのことは、光や風の入り方、照明、室温などをシミュレーションして検証し、それを可視化して施主に示すこと。手間暇もかかるため、これを必須としている建築家は少ない。
「設計の意図を言葉で伝えるだけでなく、具体的なエビデンスと共に提示することで、より深い理解と納得感をもっていただけるよう、努めています」と松田さんは語る。
施主のことを真に考え、手間暇を惜しまない、それが松田流なのだ。
当然自邸の設計においても、シミュレーションを行った。そうすると、南からの光を採り込める絶妙な角度が見つかった。こうして導き出されたのが、スキップフロアという手法で、間仕切りのない大きなワンルーム空間をつくるというプランだった。
驚きの絶景と暮らしを楽しむ自邸は
理想の家づくりを体感するモデルルーム
住宅が立ち並ぶ私道を進んでいくと、松田邸のエントランスが見えてくる。旗竿地の特徴を生かした長いアプローチには、アオダモなどのいくつもの植物が植えられていて、訪れた人を出迎えてくれるかのようだ。中にはトマトなど食べられる植物もあり、お子さんたちと共に収穫する楽しみもあるのだとか。
玄関扉を開けて中に入ると、そこには9.3畳の広さのある土間スペースが広がっている。実は先ほどの扉は玄関ではなく、このスペースの入口だった。
「妻が『家の一部をシェアスペースとして貸し出してもいいんじゃない?』と言ったことがきっかけで作った多目的スペースです」と松田さん。専用の洗面とトイレが設けられており、自宅に影響することなく会議室やアトリエとして貸し出せる。通常時は松田さんの仕事場として、クライアントとの打ち合わせなどにも使っているという。また、自転車のメンテナンスなどの作業場、子供の遊び場などにも使える自由な空間だ。
「実はこの窓から、春になると土手の桜が見えるんです」と松田さん。なんとも居心地の良い場で仕事をされていて羨ましくなる。
この土間スペースの一角のドアを開くと松田家の真の玄関がある。半階ほど上った先にあるのが、11畳の広い寝室。奥まっているため、あまり陽は入らないというが、ほぼ寝るときにしか使わない場としては、かえって都合が良いだろう。
さらに階段を上っていくと到達するのが、DKとリビング、そしてライブラリー、スタディコーナーが集まった大きなワンルーム空間だ。
そして何より驚かされるのが、長さ7m、6連の横長窓の先に見える多摩川河川敷の大パノラマ。思わず「おおーーっ」と声がもれる。松田さんによると訪れた人は皆同じような反応をし「さすが建築家がつくる家だ」という人もいたのだとか。
実はこの眺望を実現するために「窓枠をいかに細く見せるか」にこだわったという。ビル用のサッシを使えば細くはできる。でもそれでは窓だけで数百万円、住宅用の約3倍の出費となってしまうという。だからこそ住宅用でありながら細く見せる必要があった。
「事前に工務店の現場監督に相談して、ギリギリ可能な範囲で設計しました。おそらくハウスメーカーでは実現できなかったと思います」と松田さん。
建築家の案件を多数手がける工務店は、腕の立つ職人がいることも多い。だからこそ設計の自由度も高くなるのだという。
横長窓の下には、長いカウンターを設けた。DK部分ではバーカウンターのような高さに、一方リビング側では座椅子でちょうど良い高さとなるよう、スキップフロアの高さを調整したのだという。
リビングの南側には、梯子で上るルーフバルコニーを設けた。光のシミュレーションで見つけた隣家の隙間から光が差し込む場所だ。陽当たりの良いここでは、じゃがいもやぶどうを植え、家庭菜園を愉しんだり、夏にはお子さん達がプールで遊んだりすることもあるという。
その下の少し籠るようなスペースは、ライブラリー。現在はお子さんたちの本やおもちゃ置き場として使っているという。さらにその奥には、奥様のテレワークの場となるスタディコーナーも設けた。
松田さんはスキップフロアというアイデアで、大きな1つの空間でありながら、階段を回り込むようにいくつものゾーンを生み出し、家族同士がゆるく繋がる空間を実現した。
このアイデア力には驚かされる。
「今の私たちの暮らしでは、個室は必要ありません。寝室やライブラリー、スタディコーナーは、あとから部屋化できる造りにしていますので、子供部屋が必要な時期には変えることも可能です。必要に応じて変化できる家ということの一例としてお客様にご理解いただける場でもあります」と松田さん。
部屋として仕切られていなくても、各コーナーは、天井や床の高さが異なり、籠もる空間と開放的な空間が点在する。それぞれが思い思いに過ごすいくつもの心地良い居場所ができているのだ。
「友人が集まったときに、ある人はスキップの段差をベンチのように使って座ったり、窓側の端の席に陣取ったりと、いつの間にかそれぞれ好きな場所を見つけていました。まさに自分が思い描いていたことをゲストが自然とやっていたことがとても嬉しく感じました」と松田さんは語る。
この家は、松田家の暮らしの理想を実現した場でもあり、松田文男という建築家の家づくりのモデルルームでもある。しかしここで実現していることが松田さんの全てではない。
「私は自身の建築に、作家性というのはあまり考えていません。家というものは、施主やご家族のためのものであり、寄り添って一緒に作り上げていきたいという思いです」と松田さんは語る。
だからこそ、松田さんは施主の想いを的確に汲み取り、最適な提案をすることを大切にしている。
この家は「松田さんだったら自分達の思い描く、いやそれ以上の期待を超えた家をつくってくれる」という可能性を実感できる場だ。
理想の家づくりをしたいと思う人は、ぜひこの家を訪れて自分自信の目で感じ取ってほしい。
基本データ
| 作品名 | 矢野口の家 |
|---|---|
| 所在地 | 神奈川県 川崎市 |
| 敷地面積 | 78.36㎡ |
| 延床面積 | 86.37㎡ |
| 家族構成 | 夫婦+子供2人 |
| 予算 | 3000万円台 |
| 施主 | 自邸 |
撮影:石井雅義
設計者情報
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